学校教育を哲学する 「いじめ」について

イジメ問題や体罰問題は、
いじめられる子供を視点にして哲学すると、
差別にとられるかもしれない言葉を使わない、とか、
いじめと誤解を招く言葉や態度をとらない、とか、
そういう結論にいたります。
そうすると、まるで、結婚式に「別れ」を連想させる言葉はタブーというのと、
似たような感じになっていくでしょう。
非常に堅苦しく、
一言発するのも神経を使わねばならなくなるでしょう。
先生は、結婚式の司会者のように、
子供の前で使ってはいけない言葉・態度マニュアル本を片手に、
授業や、ホームルームを進行しなければなりません。
そして、子供同士のいじめに関しては、
いじめる側の子供の手本となるように、
マニュアル本を片手に指導せねばなりません。
それでも、言うことを聞かない子供に対しては、
徹底した「いじめないための教育」が必要になるので、
放課後や別の時間に、その教育をするための時間を割く必要が出てくるでしょう。
体罰問題も同じです。
体罰ととられるかもしれない行為をしないためのマニュアル本を片手に、
子供と接しなければならなくなるでしょう。
そうなると、先生に求められる資質は、
いかにマニュアル通りに行動できるか・・・ということになります。
ロボットで良いのです。
いえ、むしろ、ロボットのほうが良いかもしれません。
プログラム通りに進行し、マニュアルをインプットさせておけば、
間違いはありません。
何か問題が起きても、学校側は、
「ロボットに間違いはない」、と言い切ることが出来ますし、
もし、ロボットに不具合が見つかれば、
「ただちに修理いたします」と謝ればいいのです。
けれど、果たして、本当にこれで良いのでしょうか?
これが良いと言えるのか・・・?ということをテーマに、哲学がはじまるのです。
| 心のメッセージ | 20:49 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑