学校教育を哲学する・・・と?

ゆとり教育・・・や、優劣を争わない教育は、
一番不出来であろう子供の視点の哲学を形にしたと思われます。
出来る子供の視点で教育すると、
出来ない子供が勉強についていけなくなります。
なので、すべての子供がついていける視点で哲学すると、
出来ない子供の視点にたって考えるのが良い・・・という結論にいたります。
けれど、そうすると、出来る子供は、学校教育では物足りなくなり、
塾に頼ることになります。
本来なら、もっと勉強出来たかもしれない子供たちも、
ゆとり教育のレベルに合わせると、
そのレベルに準じたレベルにしか育たない・・・という不具合も生じます。
つまり、不出来な子供の視点で物事を形にする・・・という哲学は、
不出来な子供のためであり、
出来る子供のためにはなりません。
ここで、考えねばならないのは、
どこまでを不出来とするのか、
そして、不出来と思われる子供の伸び代をどう考えるのか・・・ということです。
不出来と思っていても、
何かの具合で、出来るようになったりします。
なのに、最初から不出来と決めつけるのもどうか・・・という問題が出てきます。
精神障害、発達障害も同じです。
何かの具合で、障害が治ることがあります。
なのに、最初から精神(発達)障害者と決めつけるのもどうか・・・
という問題が出てくると思います。
一般の子供たちの中に、
精神障害児を放り込むのは、どうしてかというと、
もしかしたら、刺激となって治るかもしれないという可能性に賭けるという意味があります。
ただ、それが吉と出るか凶と出るかが、様子を見ないとわかりません。
凶と出た場合は、周囲の子供たちや先生に迷惑をかけることになります。
吉と出た場合は、刺激となって、トレーニングとなって、
障害が治る・・・ということもあるのです。
そして、その子供に関わる子供たちや先生の刺激になることもあるのです。
学校の方針や、先生との相性も重要なテーマになります。
| 心のメッセージ | 20:19 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑