超越した存在について
ヨハネ福音書の中の
「ペトロの信仰宣言」では、
命を与えるのは「霊」である。
「肉」は何の役にも立たない。
という一説があります。
(この後、「ユダの裏切りを暗示する」という展開になります。)
この一説は、
「この世を超越した存在こそが、命を与える。
人智は何の役にも立たない」
という意味だと思われます。
この一説に書かれている「霊」とは、単に、「魂」という意味では無くて、
この世には、この世を超越した存在が存在していて、
この世の生命(いのち)のカギは、すべてその存在が握っているとでも言わんばかりです。
その後の「イエズスの教えの源」では、
わたしの教えは、超越した存在の智恵であって、
わたしの智恵ではない。
だから、わたしはわたしの栄誉を求めない。
「イエズスはメシアか」では、
超越した存在は本当におられる。
わたしはその方のもとから来て、その方の智恵を話している。
しかし、わたしの話を理解しない者は、その存在を知らない。
と、いうような内容の下りがあります。
以上の内容で読み取れるのは、
超越した存在がある・ないという二極性では、
超越した存在がある=幸せ 超越した存在がない=不幸
となりますが、
この二極性を高い意識で融合すると、
「超越した存在があってもなくても、幸せでも不幸せでもない」という真理が見えてきます。
※商売気の有る人は、
超越した存在のある・ないという、ひとつのエンターテイメント性を強調して、
人の興味を引くための演出に使う人もいます。
「超越した存在」の存在を強調して、
「自分だけが、その存在を知っている。」と、いう下りの、
本来の意味は、
「誰もが、超越した存在を感じる事が出来て、
誰もが、メシアになれる可能性を秘めている」
というのが正しい解釈だと思われます。
ヨハネの福音書は、
「魂を感じる・意識する」ことからはじまって、
「超越した存在を感じる・意識する」までの人生の旅を導いているのです。
超越した存在を意識すれば、
この世の中の人生の二極性(ある・ない=幸せ・不幸)などどうでもよくなって、
人間関係の束縛や呪縛から解放されるであろう。
と、いうことを教えているのです。
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