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太陽の光・月の光 天使様のメッセージ

悩みを抱えている人の癒しの場になればと思います。天使様のメッセージをお届けします。

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能力について

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マタイ・マルコ、ルカの福音書の中には、

こういったたとえ話も書かれています。

(原文のままではなく、要約しています。)

 

人を裁いてはいけません。

罪に定めてはいけません。

人をゆるしなさい。

なぜなら、

あなたが人にしたことは、必ずあなたに返ってくるからです。

自分のことを棚に上げて、

人に注意することは出来ません。

まず、あなた自身が正しい人となりなさい。

―「人を裁くな」より―

 

善い思考は、善い行動につながり、

悪い思考は、悪い行動につながります。

―「良い木と悪い木」より―

 

道ばたに落ちた種は、空の鳥がついばんでしまった。

岩の上に落ちた種は、はえ育ったが枯れてしまった。

いばらの中に落ちた種は、いばらに覆いふさがれてしまった。

良い土の上に落ちた種は、はえ育って百倍の実を結んだ。

―「種まきのたとえ話」より―

 

 

人は、もともと持って生まれたセンスや才能、能力があります。

勉強、仕事、人間関係、恋愛、商才、運動神経、芸術・美術などなど、

いろんな面において違うレベルの能力を与えられています。

たとえば、運動神経が抜きんでていても、勉強はまるで駄目とか、

商才があっても恋愛は苦手とか、

同じ人物の中にも、持って生まれた得手不得手があります。

 

能力を大きく5段階に分けると、

  1. 能力・センスが全く無い。
  2. 能力が無いわけでは無いが、磨かれていない。
  3. 能力があって、それを磨いている。あるいは、磨こうと努力している。
  4. ずば抜けた能力があって、その能力を活かすために、自分の身を粉にして尽くしている。あるいは、その能力で人に献身・奉仕している。その能力に命をささげている。そのために、いっさいのこだわりを捨てている。
  5. 能力が完璧・完全に近い状態で、生まれながらにして持っている。天恵。

 

「種まきのたとえ話」と照らし合わせると、

1の段階は、(道ばたに落ちた種)

能力が無いので、それに関しては、常にトラブルが絶えません。

トラブルを回避するには、

能力の有無は、生まれもって与えられた事で、

当人にはどうすることも出来ないことですので、

(無から有を生む事は出来ません。)

当人も能力の無い事を認めて、

周囲もそれを受け入れる事が必要です。

 

2の段階は、(岩の上に落ちた種)

能力は無いことは無いのですが、

それを磨くという意識に達する事が難しい段階です。

集中力・ポテンシャルを維持出来ない段階だからです。

目標や理想は見えても、それに向かってひとつひとつ努力を積むことが出来ないのです。

努力の方向がわからないからです。

「理想に届かないからやめる」という意識が働く段階です。

この段階での能力を磨くには、

優れた指導者・コーチに毎日指導を受けることが必要です。

 

3の段階は、(いばらの中に落ちた種)

能力があって、それを磨きたいという意志があれば、

集中力、ポテンシャルも備わっていて、

その能力を磨く事が出来る段階です。

ひとつひとつ石を積み上げるようにコツコツと目標に向かって努力します。

努力の方向がわかるからです。

ただ、この段階は一番、当人の意識レベルが試される段階です。

当人の意識が低ければ、大きなトラブルにつながり、

意識が高ければ、周囲に喜びをもたらすことが出来ます。

困難や障害、挫折を一番味わいやすい段階と言えるでしょう。

一番、その能力にこだわりを持っているのもこの段階です。

吉・凶紙一重で、運命や縁に強く左右されやすいとも言えます。

「出来る・出来ない」「ある・ない」など「幸せ・不幸」の二極性にたえず悩まされます。

それによって、高い意識への目覚めにつながれば、良い結果を得、

低い意識にとらわれれば、悪い結果を得る段階です。

 

4の段階は、(良い土の上に落ちた種)

ずば抜けた能力があって、その能力に身をささげる段階です。

もともと持って生まれた能力が高いうえに、

それに自分の身をささげても惜しくないという意識が働く段階です。

2や3の段階の人が、「そこまでは出来ない」ということをやり遂げる段階とも言えます。

ある意味、当人の身内が一番ハラハラドキドキさせられる段階かもしれません。

ドラマなどで、母親や恋人が「あなたの命が危ないからやめて!」

と叫んでいる図を想像してください。(身内はそういう気持ちにさせられます。)

高い意識と高い能力でもって献身・奉仕する段階です。

凡人には理解出来ないレベルです。

 

5の段階は、

神の域とも言えます。

生まれながらにして、完璧に近い能力がすでに備わっているのです。

当人は努力をするわけでもなく、すでに与えられているのです。

その能力は当人の体の一部なのです。

能力と当人が一致・融合していて、悩みも努力も必要のない段階です。

 

 

 

たとえば、恋愛は3のレベルだけど、勉強は2のレベル。とか、

仕事は4のレベルだけど、人間関係は3のレベル。とか、

自分の中の要素とそれに対応しているレベルを細かく分析してみるのも、

何を目標にして生きるか、などの目安や整理につながると思います。

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| 哲学するマタイ | 12:22 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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美しさとは

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新約聖書の中のマタイ福音書では、

とてもシンプルにまるで子供を諭すように、

美しい心でいるための心得が書かれています。

(原文のままではなく、簡単に要約しました。)

 

殺してはいけない。

人を罵ったり見下したりしてはいけない。

恨みを抱いてはいけない。

恨みを抱くものと和解しなさい。

そうしなければ、

死ぬまで、地獄の責め苦を味わうでしょう。

―「殺人と憤怒」より―

 

悪人に逆らってはならない。

求める者には与えなさい。

あなたから借りよう(奪おう)とする者に、

背を向けてはならない。

―「同害復讐法」より―

 

敵を愛しなさい。

あなたを責める者のために祈りなさい。

―「敵を愛せよ」より―

 

善い事をする時は、

自分でも気がつかぬくらいに

自然にやりなさい。

人に見せびらかすものではありません。

―「隠れた施し」より―

 

物質的な宝は、壊れたり盗まれたりします。

心の宝は、壊れたり盗まれたりしません。

あなたの宝のあるところに

あなたの心もあるからです。

―「天に宝を積む」より―

 

明日のことは、明日思いわずらえばよい。

その日の苦労は、その日だけで十分である。

―「摂理への信頼」より―

 

何事でも、人から自分にしてもらいたいと望む事を、

人にもしてあげなさい。

―「黄金律」より―

 

 

この他にもたくさんあるのですが、

日本の昔話や仏教の教えに似た内容なので、

抵抗なく受け入れられます。

どの時代でもどの国でも「美しい心」の有り方は同じです。

とくに、マタイとマルコ、ルカの福音書はたとえ話が頻繁に出てきます。

まるで童話か昔話のような感じです。

 

        神=美しい心      神でない=醜い心

 

ということを教えています。

また、「美しい心は、醜さに対して寛大である」 とも読み取れます。

 

ヨハネの福音書に見られるような、対極にあるものへの強い反発のようなものは感じません。

ヨハネの福音書は、「キリストの苦悩」を書いているのに対して、

マタイとマルコ、ルカの福音書は、どちらかというと、

「キリストの教え」「キリストの行い」を重点的に書いているからでしょう。

 

「神と神でない」=「美と醜」という二極性を、

「神はすべてを受け入れて許す」=「美は醜を受け入れて許す」という形で、

融合させようとしているのがわかります。

「美は醜を受け入れて許すからこそ、美なのだ。」

と、言わんばかりです。

 

醜を受け入れない美は、美ではなく醜である。

ということも言いたいのだと思います。

 

でもある意味、

醜は美によって、どこまでも限りなく許される。

そうだとしたら、美は醜を甘やかしはしないだろうか、という疑問がわいてきます。

それとも、醜は美によって受け入れられ、許されることによって、

美に近づこうとするのでしょうか。

 

真の目的は、

美とは何か、醜とは何かという二極性に気が付き、悩むことだと思います。

悩む事によって、高い意識への目覚め・移行につながるからです。

 

「敵を愛せ」と言われたら、憎い相手をどうやって愛する事が出来る?と悩むはずです。

敵は反発するものであって、決して、愛せる(すなわち一致・融合)ものではありません。

対極にあるものを愛しなさい、というのは、二人の主人につかえるのと同じです。

福音書のたとえの中にも、「二人の主人に兼ねつかえる事は出来ない」とも書いています。

明らかに矛盾していますが、

この矛盾が悩みを生み、高い意識を持つきっかけとなるからこそ、

たとえ話の中にたくさんの矛盾を散りばめているのだと思われます。

 

ちなみに、「敵を愛する」には、「敵・味方」という低い意識から離れる必要があります。

敵は危害を与えるものです。

まず、危害そのものが一体何なのかを考える事が出発点となるでしょう。

 

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