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太陽の光・月の光 天使様のメッセージ

悩みを抱えている人の癒しの場になればと思います。天使様のメッセージをお届けします。

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善のまとめ

white cherry flowers 

 

「善」「高い意識」をまとめると、

  • その時その時に応じて、すべきことをする。
  • すべての事象、出来事、人間関係は一つである。(分離していない)
  • 大きな流れや視野でみる。(個人レベルではない)
  • 安全である。
  • 活かす。生きる。育てる。
  • 欲望をコントロール出来る。

 

逆に、「悪」「低い意識」をまとめると、

  • すべきことをしない。
  • すべての事象、出来事、人間関係は分離している。(2極性を持つ)
  • 個人レベルの視野でみる。(視野が狭い、ひとりよがり)
  • 危険、不安定である。
  • 殺す。壊す。崩す。
  • 欲望に振り回される。
  • 恐れ

 

罪の意識や欲望が、どれほど残酷・残虐かをわかりやすく説明すると、

欲望を「壊すこと」にたとえて、段階で説明すると、

 

  1. 直感で壊す相手(対象物)を選ぶ
  2. 壊し方の情報収集
  3. 壊すための道具を手に取る
  4. 壊す相手(対象物)を捕まえる
  5. 一番有効な壊し方を意識する
  6. 楽しい壊し方の選択
  7. 壊し方をイメージする
  8. 実際に相手(対象物)を壊す(関係を壊す)
  9. 道具の使い方を吟味、反芻する
  10. 再度、壊すチャンスをうかがう
  11. 壊した理由を相手(対象物)のせいにする(責任転嫁)
  12. 壊した相手(対象物)が耐え苦しんでいるのを楽しむ
  13. 過去の破壊の清算
  14. 何かにとりつかれたように壊す(自分の意思ではない)
  15. 壊すこと自体の快感を得る
  16. 手当たりしだい壊す、破壊する
  17. 壊すことの喜びやヒントを得る
  18. 壊す事の罪の意識がない
  19. 壊すこと=生きる喜び、自分の人生そのもの
  20. 壊す事の正しさを認識する、破壊者としての自覚
  21. これ以上ない至福を壊す事によって得る

つまり、欲望がエスカレートすると、相手や自分の関係を傷つけたり壊すことで、

至福を得ることにつながります。

これは、本当に恐ろしいことです。

自分の境遇に不満が募ると、欲望が芽を出します。

誰の心の中にも欲望の種はあります。

種が芽を出した事に気がついたら、すぐに抜くことです。

ほうっておくと、芽はだんだんと成長して、やがて欲望の木となり、欲望の実をつけるでしょう。

欲望の実は地面におちると、腐って種になり、種はまた芽を出します。

一度、欲望から「至福の実」を得ると、善の意識に戻るのに時間がかかります。

上記の段階でいえば、

レベル9までなら、喧嘩でいえば相手と和解出来る状態です。

レベル10を超えると、相手を傷つけることによって終わります。

喧嘩でいえば、一方的に相手を傷つけて終わる状態です。

レベル10を超える状態が何度も続くと、(相手の忍耐強さにもよりますが)

相手と絶交、絶縁となっても仕方がないと言えるでしょう。

 

逆に「愛」が、どれほど素晴らしいかをわかりやすく説明すると、

  1. 直感で愛する相手(対象物)を選ぶ
  2. 愛し方の情報収集
  3. 愛するための道具を手に取る
  4. 相手(対象物)と向き合う
  5. 一番有効な愛し方を意識する
  6. 楽しい愛し方の選択
  7. 愛し方をイメージする
  8. 実際に相手(対象物)を愛する
  9. 道具の使い方を吟味、反芻する
  10. 再度、愛するチャンスをうかがう
  11. 愛した理由(対象物)を相手の存在に委ねる
  12. 愛するための試練
  13. 愛の清算
  14. 大きな視野で愛する
  15. 愛によって自由になる
  16. 新しい愛のために古い愛を壊す
  17. 愛のヒントを得る
  18. 愛することで罪の意識をなくす
  19. 愛すること=生きる喜び、人生そのもの
  20. 愛の正しさを認識する、 愛することの自覚
  21. これ以上ない至福を愛する事によって得る

 

愛によって至福を得ることは、生きる醍醐味といえるでしょう。

自分の境遇を素直に受け入れることによって、

愛が芽を出します。

誰の心の中にも愛の種はあります。

愛の種が芽を出したら、大切に育てることです。

愛の種は成長すると、やがて愛の木になり、愛の実をつけます。

愛の実は熟すと、周囲の人が喜んでその実を食べるでしょう。

そして、地面におちた種はやがて芽を出します。

一度「愛の実」を食べたら、「欲望の実」はまずくて食べれません。

愛から「至福の実」を得た相手(対象物)からは、一生離れないでしょう。

      ※捕捉: 夫婦愛は、レベル3が高い意識5とつながったレベル9です。

       そして21の至福を得ることが出来れば、離婚することはありません。

       恋愛は、レベル3が相手と向き合う4とつながったレベル17か19です。

       

欲望にしても愛にしても、対象物は人とは限りません。

趣味、仕事、スポーツ、ペット、家、車などいろいろな物にあてはめて参考にしてみてください。

 

 

新しいものを手に入れたり、新しい道を選びたい時や、何かを手に入れたいときに、

それが欲望による場合は、

人は、目の前にあるもの(人間関係)を壊したくなります。

目の前にあるものが障害物のように思えるからです。

ですから、何かが障害物のように思えるときは、

自分の欲望の芽が出ている証拠ですので、注意して、その芽を抜く事です。

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| 哲学するヨハネ | 18:23 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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福音書「人を裁くな」について

pink lotus21 

 

人を裁いてはいけません。

人を罪に定めてはいけません。

あなたの正義が人を罪に定めるならば、

それは正義ではありません。

あなたは、ただあなたの欲望を満たしたいだけに過ぎないのです。

それは悪の人格のすることです。

 

あなたが敵を裁き、罪に定めようとするのと同じように、

あなたの敵も、あなたを裁き、罪に定めようとするでしょう。

これは悪の人格のすることです。

悪の人格に触れてはいけません。

相手の悪の人格にさわり、目覚めさせるようなことをしてはいけません。

それこそ、悪魔や闇が望んでいる事なのです。

悪魔の手先になってはいけません。

悪魔に力を貸してはいけません。

 

そのかわり、敵をゆるしなさい。

敵に愛を与えなさい。

相手の善の人格にふれなさい。

相手の善の人格にふれて、目覚めさせることこそ、

天使や光が望んでいる事なのです。

天使に力を貸して下さい。

 

敵と言っても、人間です。

人ならば、必ず善の人格を持っています。

それが摂理です。

善の人格を持たない人がいるならば、それは人ではなく、野獣です。

野獣は人の手では育ちません。

人の手で育てられたということは、つまり、その人は野獣ではなく、人であるということです。

 

善の人格は、善の思考でもって善の行いをします。

悪の人格は、悪の思考でもって悪の行いをします。

あなたの心が、どちらの人格に従っているのか知りたいならば、

自分の行いを見てみるといいでしょう。

 

 

相手があなたを罪に定めようとするとき、

あなたは相手をゆるしなさい。

決して、相手を裁いてはいけません。

相手の善の人格にふれなさい。

 

| 哲学するヨハネ | 23:56 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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人格と光と闇について

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人の中には、善の人格と悪の人格が混ざっています。

善の人格は、美しく、高い意識と大きな視野で物事をとらえ、思考して行動します。

悪の人格は、醜く、低い意識と狭い視野(個人レベル)で物事をとらえ、思考して行動します。

 

悪の人格は、誘惑と罪の意識に満ちています。

あなたの人生でトラブルを起こすのは、あなたの中の「悪の人格」なのです。

悪の人格もあなたの人格の一部であることには間違いないので、

なくしてしまうことは困難かもしれませんが、

この悪の人格に主導権を握らせてはいけません。

 

つねに善の意識が主導権を持ち、善の意識で人生を歩めば、

人生は何の問題もありません。

 

光が闇に打ち勝つ事が出来るかは、

あなた次第です。

 

あなたが心の闇に主導権を握らせてしまったら、

心の光はどこかに閉じ込められてしまいます。

心の闇は、欲望と罪の意識で生きています。

それらは一致しています。

問題やトラブルの種を持ち、その種を育てようとします。

一人で種を育てることが出来ないので、

周囲の人を必ず巻き込もうとします。

当人には罪の意識があっても、悪気はありません。

本性でそれを望んでそうしているからです。

 

心の光に主導権を持たせることです。

そうすれば、闇はどこかへ閉じ込められます。

光が闇に打ち勝つというのは、このことを言っているのです。

心の光は美しく、幸せに満ちています。

 

 

 

何かに反応して闇のスイッチが入ったり、光のスイッチが入ります。

闇のスイッチは、欲望に反応します。

光のスイッチは、愛に反応します。

どんな状況の中でも、つねに「愛」を積極的に感じることです。

 

人は幼児のときに、言葉を覚えます。

それは、自分の意思を伝えたいという積極的な願いが、

言葉を覚えることにつながるからです。

愛を覚えるのも同じ事です。

愛を伝えたいという積極的な願いが、

愛を覚えることにつながるのです。

それがあなたの心のスイッチに反応した時、

心の光が主導権を持つことにつながるのです。

 

叩くものは開かれ、

求めるものには与えられる

と、いう言葉はこのことを言っているのです。

 

「愛という名の欲望」を伝えたいと思うと、

心の闇にスイッチが入ります。

「愛という名の幸せ」を伝えたいと思う事です。

相手や摂理を心から信頼して、幸せにしたい、幸せになりたいという思いが、

心の光にスイッチを入れるのです。

それを疑うことなく、実践出来た者が、

「光の勝利」を手にする事が出来るのです。

 

 

 

※ 愛という名の欲望か幸せかを見極める時は、以下を参考にしてください。

  欲望の愛の場合は、心が乱れます。

  幸せの愛の場合は、心が穏やかになり落ち着きます。

| 哲学するヨハネ | 19:18 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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美しさと醜さについて

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この世に真の正義は存在しません。

正義は、単なる自己肯定や他者否定に過ぎません。

あなたの人生に他者が関わることに限度があるように、

あなたも他者の人生に関わるのは限度があるのです。

 

信頼というのでもなく、愛情というのでもなく、

人が求めていることに応えることこそが、

望まれた姿であるといえるでしょう。

 

それは、ただ単に、相手の言葉に振り回されることを意味しているのではなく、

相手の人生向上に役立てることを意味しています。

低い意識は、苦しみを生みます。

人は、苦しみから逃れたいと思っています。

つまり、誰もが高い意識にあこがれ、そうなりたいと思っているのです。

それが、人があなたに求めることなのです。

これこそが摂理への信頼につながっていくのです。

 

瞬間の欲望を抑えきれない者は、

誰かがとめてくれることを望んでいます。

その人の態度を見ていたら、とてもではないけれど、

それをとめて欲しいようには見えないかもしれません。

自ら望んでそうしているとしか思えないかもしれません。

でも、本当は誰かにとめて欲しいのです。

醜いものが好きな人はいません。

人の本能は、美を好み、美に近づきたいと思っているのです。

明らかに醜い態度をとるときは、

本人も自分の醜さを感じて、醜い自分を嫌っています。

自傷行為に及ぶ人は、その証です。

当人は「気持ち良い」と感じるからそうしますが、

醜い自分を傷つけるのが気持ち良いと感じるからそうするのです。

美しい自分を傷つけたいと思う人はいません。

 

醜い部分を増長するのではなく、

美しい部分を探し出すことが大切です。

自分の中の美しさに気がつけば、

他者の中にも美しい部分があることがわかります。

(美しい部分が隠されていたり、眠っている状態であるかもしれません)

 

たとえ、心が醜くなる理由が、他者や環境、悪霊などの影響であったとしても、

それを克服するかしないかは本人の意思の問題です。

すべてを自分以外のものに責任転嫁することは間違っていますし、

責任転嫁している限りは、醜さは改善されることはないでしょう。

美にはほど遠い存在であり続けることは、

自分を苦しめ、周囲を苦しめます。

 

人生を終わらせたくなかったら、

自分の中の美しさを自分の力で見つけることです。

 

この世は厳しいのが現実です。

「甘え」は受け入れられません。

他者に「醜い」レッテルを貼られる前に、

「美しさ」でもって自分を守ることです。

 

 

| 哲学するヨハネ | 12:20 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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福音書という名の伝説

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新約聖書の中の福音書は、

「キリスト伝説」を書いていると思われます。

 

キリストは、人ではなく神である。

処女受胎で生まれてきて、数々の奇跡をおこなった。

そして、私たち、愚かな人間の罪を一身にかぶって、

十字架に貼り付けられ、この世を去った、と。

 

けれど、この21世紀現在では、その伝説も「単なる伝説」にすぎない、

という思想が多く見受けられます。

1億年近い人類の歴史の中で、処女受胎で生まれてきた人は、誰もいません。 

死人を生き返らせたという具体的な話も聞きません。

「キリスト伝説」はあまりにも非現実的すぎて、真実味からかけ離れているのは事実です。

(だからこそ、伝説と呼ぶにふさわしいとは思うのだけれど)

 

もし、キリストが奇跡をおこなったとすれば、

それは必ず種や仕掛けがあったと思われます。

でも、私は、キリストが魔術師・奇術師のようなエンターテイメント性のある非現実的な奇跡を

おこなったとは思えません。

   ※もちろん、優れた霊能力はあったでしょうから、

    人々の霊・魂になんらかのエネルギーを注ぎこんだり、干渉したり、

    預言したり、霊視したり、浄霊したりというような事はしたと思います。

    (この現実でも行われているような事は、していたと思います。)

 

なぜなら、キリストが伝えたかった事は、

「自分は神である」という事ではなく、

「誰の中にも神がいる」だったのではないかと思うからです。

 

魂の中に神はいる。

魂を意識すれば、それは神を意識することにつながる。

 

人と神は違うけれど、高い意識を持てば人と神は融合しようとする。

その真理を実現しようと試みたのだと思います。

 

 

私が新約聖書から感じる波動・波長は、

「自立」です。

「依存心を捨てて自立する」ことこそ、キリストが望んだことだと思うのです。

低い意識での分離された神(あるいは権力者)への依存は、

神(あるいは権力)の名を使って私腹を肥やそうとする人たちの思う壺です。

高い意識になれば、自然に神と融合しようとします。

それは、分離された神からの自立を意味します。

 

その意識は、必ず

「神がいてもいなくてもあまり変わらない。幸せでも不幸でもない」

という真理に近づきます。

 

これこそが、「自立」だと思うのです。

| 哲学するヨハネ | 23:36 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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